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「晴れた空」 ―半村良を旅する(3)

3月は半村さんと関わりの多い月だ。亡くなったのが2002年3月4日。そして3月10日の東京大空襲を思い出してしまう。

大空襲で焼け出され上野のガード下で肩を寄せ合うようにして生きていた孤児たち8人、美しい未亡人とその幼い娘。力を合わせ知恵を出し合い生き延びていく。戦後、さまざまな場面で救いの手を伸ばす特攻帰りの男。
あの忌まわしい3月10日から終戦の8月15日を経て、日本が復興を果たすまでを描く長編の傑作のひとつ『晴れた空』。

上野周辺から山手線に沿って秋葉原あたりまで歩こうと思い立った。
「哀しみの東京大空襲」を記憶から消さないために「時忘れじの集い」が先日の9日に行われると、発起人のひとりである海老名香葉子さん(落語家の先代・林家三平師匠夫人)にお誘いを受けた。「集い」の時間には間に合わなかったが、慰霊碑にお参りだけはさせていただいた。
上野駅から線路に沿って4,5分歩いたところ、東叡山輪王寺の先、その慰霊碑はひっそりと建っていた。慰霊祭の終わった直後で、花が供えられていた。

空襲直後、終戦直後の上野公園周辺はどうだったのだろうか。そんな痕跡を探した。
国立科学博物館、上野動物園、不忍池、西郷隆盛像。昭和の名残さえすでに定かではない。
上野動物園にも悲しい大空襲の歴史があり、西郷像はずっと周辺の景色を眺め続けてきたはずだ。
公園は工事中で、かつてはホームレスのブルーシートのテントが目立ったのだが、それすらなくなり、団体で歩く人たちの話す言葉は、中国語だったり韓国語だったり、さまざまな外国のひとたちが行き交う。

〈アメ横〉を歩く。大空襲直後はまさに「ガード下」だったのだろう、21年にはバラック建ての商店がならんだと聞く。戦後の食糧難、物資不足の時代に〈アメ横〉は誕生した。さすがに年末のあの混雑はないものの、昼を少し過ぎた時間にもかかわらず酒場は店を開け、バッグやキャップ、ロゴ入りのスゥエットを売る店がひしめき、その先には海産物の店の「安いよ、これもおまけだよ」の声が聞こえる。

山手線のガード沿いに秋葉原まで。私が上京したばかりの頃、もう40年以上になるのだが、駅の隣にはまだ青果市場のあとがあり、電気ごたつや炊飯器を値切りながら買うような〈電気屋さん〉が軒を連ねていた。
その秋葉原は〈アキバ〉となり〈おたく〉文化の中心であり、いまや〈AKB48〉の街だ。すっかり様変わりし、数年前には昭和の痕跡はまったく消えてしまった。

『晴れた空』には混乱の戦後を乗り切るためには、ただ困難だけではなく、きれい事だけではすまされない生き方があった。孤児たちは盗みや掏摸といった犯罪、故買に手を染め、闇物資の売買で確実に資産を増やす。その陰には「お母さん」と呼ばれる戦争未亡人への陰の組織の力があった。彼らは本拠地を上野から銀座へと移し、新宿や新橋といった闇市に活動の地域を広げていく。しかし、その「お母さん」も組織に取り込まれ麻薬中毒患者になってしまう。だが8人の孤児たちはそれぞれの持つ能力を生かし、高度成長期の波に乗り大きくなっていく。
戦後の日本を世界の経済大国まで引き上げた原動力の一端が示される。

この原稿を書いている最中、地震があった。「大きい」と感じ、二階にいた妻に声をかけた。彼女もやっとのことで階下におり、私は玄関の扉を開けた。向かいの家も電柱も駐車場の車も、揺れている。これほどの揺れは初めてだった。
テレビを付けると、三陸沖が震源で、震度は7、マグニチュードは8.3(のちに8.8、そして9に訂正される)。
津波が町を襲う。まるで生きもののように飲み込んでいく。
翌日、津波が引いたあとは、すべてが消失していた。
東京大空襲の写真と重なった。
繰り返される津波の影像に「鬱々」とした気持ちになる。
そして福島第一原発のトラブルは、放射能という神への冒涜の天罰とも言える。
果たして、あの大空襲の焼け跡とおなじように、人々は震災の惨状から復興の槌音を響かせるのだろうか。

(GY 元・担当編集者)

戦国自衛隊/G.I.SAMURAI

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